東星の沈黙
東日本大震災から1年経った2012年3月11日午後2時46分。犠牲者を悼んで日本中が1分間の黙祷を捧げました。これから何十年もの間、毎年3月11日になると日本中が黙祷を捧げることでしょう。なぜ黙すのでしょうか。それは黙すことによってしか得られないもの、出会えないものがあることを人間がよく知っているからです。黙祷は死者を悼むことを目的として捧げられます。黙祷の「梼」は祈りの意味です。黙することによって深く死者たちのことを心に留め、祈ることができるのです。
黙祷以外でも黙する経験を私たちはしばしばします。たとえば、一人で登下校する際や授業中は多くの時間、黙しています。しかし、それは黙することが目的ではなく、別の目的があります。登下校の場合、行き先に向かって歩くことが目的ですし、授業中の場合、教師の説明や板書に集中するために黙するわけです。
黙することを目的に黙する。これが、東星学園が大切にしている「沈黙」です。「沈黙」することによって私たちは、普段得られないもの、普段出会いないものと出会うことができます。それは、死者を悼むことを目的とした黙祷のときと近い感覚かもしれませんが、黙することを目的とした「沈黙」は、より大きなものを私たちにもたらします。心の耳でしか聴くことのできないメッセージ、心の目でしか見ることのできない宝物。しゃべってしまったり、きょろきょろしてしまったりしてはけっして出会えない贈り物を「沈黙」は私たちにもたらします。
2012年、ローマ教皇ベネディクト16世は、世界コミュニケーションの日を迎えるのにあたり、「神は沈黙の中で語られる」、「沈黙の中でこそ、我々はよく聴き、よく理解できる」、「様々なサイトやソーシャル・ネットワークに向ける意識と同じくらい、祈りや黙想の場を持つことを意識すべきだ」とメッセージされました。世界コミュニケーションの日に、あえて「沈黙」の大切さを説き、安易に答えを求める現代の風潮をいさめたのです。
「沈黙」はコミュニケーションという観点からみると最も価値が低いようにみられがちですが、実はそこにおいてこそ、神との出会いがあり、他者を深く知ることができ、真の自分との出会いもあり得ます。したがって「沈黙」は、実に有益なコミュニケーション手段の一つでもあるのです。冒頭に書いた黙祷は死者との再会の手段であるともいえるでしょう。
「沈黙」のない生活を送っていると、深い気づきや出会いを逃し続ける日々の繰り返しとなり、真の意味で、神にも、他者にも、そして、自分にさえも出会えない人生を描くことになりかねません。東星学園は、神との出会いを大切にし、他者や自己との深い出会い(エンカウンター)を非常に重視する学園です。したがって、アヴェ・マリアのチャイムが鳴っているとき、20分間の掃除の最中、聖書朝礼(前後の時間帯も含む)のときは、徹底して「沈黙」を守ります。
「沈黙」にこそ、東星学園の核心があるのです。